不快でも受け入れる、それがラクに生きる秘訣なのかもしれない。

前の記事で書いたように、最近「老いを受け入れられない」辛さを感じる日が来ると気づいたのですが、

世間一般の「普通」を目指すのは無意味だとわかった、ある出来事。 - ながいながい、ひとりごと。

 

「受け入れられない」って辛さの元凶かもしれんなあ、と思うのです。

 

で、なんかヘンテコな日本語なのですが

 

「自分が受け入れられない場合もあることを受け入れる」

 

これが私に足りなかったことだとわかりました。

 

 

それは自分の思想かもしれないし、癖かもしれないし、存在自体かもしれない。

そんな自分の「アタリマエ」を受け入れられない人もいるということ。

それはとても悲しく不快な事実なのだけど、まずは「そういうこともある」と受け入れること。

 

そうしないと必要以上に腹が立って、相手に固執しちゃうんですよね。

 

「アイツこそ○○のくせに!」と悪態をつかないと、自分が落ち着かない。

 

不快な出来事があっても「そういうこともあるよね」としておけば、その件はそれでおしまいになる。(不快だけど)

不当だと感じたなら、現実的にとれる対策をとる。以上。

 

最近SNSでいろんな人の育児論を読んでいると「ないわー」というものから「反対はしないけど、そこまで大切なことじゃないかなー」というものまで、いろいろあるわけですよ。

 

ということは、逆もしかりで。

 

私が大切だと思うことを「ないわー」と思うひともいるし、「反対はしないけど、そこまで大切でもないわー」と思うひともいる。それが普通。

 

だからこそ、共感してくれる存在はすごく貴重。

そして、共感してくれなくても、尊重してくれたならそれはとても嬉しい。

 

でもまあ、共感はおろか、尊重もされないこともあります。

私自身も合わない相手は拒絶したくなること、あります。

 

「合わないな、不快だな」と感じても、その人やコトを排除したい衝動を抑える。

そして適切な距離を取る。

たいがいのことは、それで足りるのかなと思います。

 

 

あとはね、やっぱり大切な人やモノを超大切に思うこと。

 

人って「不快なこと100、嬉しいこと120」でも生きていけるけど、「不快なこと10、嬉しいこと0」だと辛くて死んでしまうと思うんですよ。

 

不快なことの大小より、嬉しいこと、楽しいこと、いわゆる「希望」がない方が辛い。

 

だから家族とか友達とか、支えてくれる人を一人ひとり思い出して「ありがとう」と感じるだけで、結構ほっこりするもんです。

 

適当な他人が思いつかないなら、デザインは気に入らなくても(笑)面白い景色を見せてくれる自分の目に、おいしい匂いを感じられる自分の鼻に、おしゃべりのできる自分の口に、「ありがとう」と感じるだけで、

 

「けっこう悪くないじゃん」という気分になるもんです。

 

 

なんかキレイゴトくさいけど。

 

 

 

 

ま、要は「自分は自分、他人は他人」っていう

 

昔から耳タコなオチですね!